沖縄少年会館とは

全国からの寄付によって建設された 「沖縄少年会館」


1950~60年代の沖縄は米軍の支配下にあり、基地から派生する犯罪や事故の 犠牲になることが多く、また貧しさから非行に走る子どもも少なくありませんでした。こうした荒んだ環境の中から、子ども達を守る目的で、1953年12月、 沖縄教職員会、沖縄PTA連合会、沖縄婦人連合会、沖縄県青年団協議会、沖縄 校長協会の5団体を母体とする「沖縄子どもを守る会」(初代会長:屋良朝苗) が結成されました。その後、沖縄の団体・自治体をはじめ全国からの寄付による資金によって 「沖縄少年会館」は建設されました。少年会館は、子どもの健やかな成長を 願う大人たちの温かい目と心を形にした施設でした。 設計にあたったのは宮里栄一建築設計研究所の若き建築家、仲宗根宗誠(当時26才)。当時のモダニズム建築の影響を色濃く反映した力強い造形と曲線 を多様した沖縄初のコンクリート打ち放し建築として注目を集めました。

//////////////////////////////////////////////////////////////////

設計者 宮里栄一より

昭和30年代、本土では青少年センター、青少年ホーム等数々の社会施設があったが、沖縄にはこの種の施設が皆無に近く、離島や本島の遠隔の学校は、児童の那覇周辺修学旅行の宿泊のため安くて環境のよい宿泊施設を強く要望し、更に本土の青少年の交流も年々盛んになって、その子供たちの受け入れのためにも必要とされた。米施政権下の特殊事情と青少年の非行犯罪が激増する社会情勢の中で青少年健全育成のため結成された”沖縄子どもを守る会”(会長:屋良朝苗)は昭和38年の理事会で少年会館の建設を議決した。全国展開の募金運動の手初めに地元の諸団体、地方公共団体の深い理解と協力を得、本土では南方同胞援護会を中心に学校関係者、自転車振興会、元東大学長 芽誠司先生等の協力を得て、40数万ドルの膨大な資金を集め、この事業を完成させた。尚、皇太子、同妃殿下からも金一封が贈られた。少年会館設計のため、渋谷の東急文化会館のプラネタリウムと竣工したばかりの都立児童館を見学したが、施設の規模が大きく、予算的に真似できるものではなかった。

コンクリート打ち放しの建物はデザインの斬新さと打ち放しの地肌が美しく昭和30年代の先端的な流行で、世界水準の音楽・舞台芸能の殿堂として昭和36年に建てられた東京文化会館は前川國男氏の傑作の一つでコンクリート打ち放しの同建物は建築界注視の的だった。筆者もそれを見学した。少年会館は沖縄で初めてのコンクリート打ち放しの建築で、曲線の多い型枠づくりと打ち放しは施工者を四苦八苦させた。同工法は気苦労もさることながら若干問題もある。前述の東京文化会館は20年後、コンクリートの中性化による被りコンクリート剥落のため、昭和57年リフリート工法による大掛かりな再生改修工事をされた。原因は主として骨材にあるがコンクリートの軟ネリにもある。

少年会館が落成したとき、地元の新聞は子どもの夢を育てる殿堂として青少年の育成に対する期待と全国の善意が本土との一体感を深めるものと期待した。特にプラネタリウムと天体望遠鏡は児童の一大関心事で、見学申し込みが殺到した。復帰後那覇市に施設遺憾され公民館に改修された。 (沖縄建築士会発行 「沖縄建築」32号より転載)

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。