設計者より「沖縄少年会館への思い」

21 3月

沖縄少年会館への思い

一級建築士 宮里榮一

 沖縄少年会館が建設されたいきさつは、沖縄教職員会長であられた屋良朝苗さんを会長とする沖縄子どもを守る会が、戦後アメリカ軍政下という特殊事情もあって、青少年問題の対策が叫ばれる中、昭和39年子ども達のために開かれた施設として研修、訓練、教育相談、話し合い娯楽の場を設けて心のより所とし、子ども達の宿泊施設・本土青少年との交流の場を設けるために建設されました。

地元沖縄ではPTA連方会、婦人連合会、小学校長会、中学校長会、高等学校校長協会、教育長会、及び琉球政府と全市町村の協力を得て、地元の態勢を整え、屋良朝苗会長は昭和38年から前後8回に渡って上京し、本土側に協力を要請しました。本土に於いては南方同胞援護会が窓口となり、日本自動車振興会、全国連合小学校長会、全日本中学校長会、全国高等学校校長協会、日本私立中学高等学校連合会、全国の教職員、児童生徒並びに多数の篤志家の方々、及び東京在住の郷土出身先輩の深きご理解とご協力のお陰で、募金を募り、会館敷地198坪を購入し、延床面積650坪余、1億6千余万円の巨額を投じて、会館を建設することができました。尚、落成式には、当時の皇太子、同妃殿下より金一封と辞書、スライドなどが贈られました。

同建物は当初、沖縄子どもを守る会と南方同胞援護会は単に鉄筋コンクリート五階建てエレベーター付きという要望でしたが、設計の構想を練る中で、児童科学展示室、鉄道模型、プラネタリウム、天体望遠鏡等の夢がふくらみ、上京して渋谷の五島プラネタリウム、渋谷児童館、上野の東京文化会館を見学して参考にいたしました。

東京文化会館は、建設20年を経て外壁の打放しコンクリートの痛みがひどく、昭和57年大規模な修繕を経て、今日でも立派に活用されています。建物は維持管理さえ良くすれば長年使用できるもので、ヨーロッパの建物が良い例です。用途が変われば、内部の模様替えだけで何百年も変わりなく活用されます。本土に於ける木造の寺院建築も然りです。少年会館の取り壊しが差し迫った今日、全国の青少年や各種団体への挨拶もなく、善意の募金でできたこの施設を、又この施設を利用して活かしたいという“新沖縄子どもを守る会”の提案を拒む中、恐らく安里に設けた公民館の新設に伴い、二重の施設と見放していると思いますが、戦後に残された公共的施設を文化的な価値を見いださないままに葬るのは誠に残念に思います。

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